青春シンコペーションsfz
第3章 音楽祭の魔物(2)
井倉はハンス達から離れ、外に飛び出していた。
「いやだ!」
ロビーのところで彩香を見かけた。が、彼は振り返らなかった。
「怖い……!」
向かいの道路は赤信号だった。が、構わず彼は突っ切った。クラクションが激しく鳴らされ、対向車が急ブレーキを踏む。
(怖い。怖い。怖い……)
「気をつけろ! 馬鹿野郎!」
窓を開けて怒鳴る運転手もいた。が、井倉は無視した。そして、走った。
(どこへ行こうというんだ? どこへでもだ。あの場にいるよりはずっとましだ。あのアントニー・ルークと比べられるよりは……。僕には弾けないのだから……)
井倉は街の中を滅茶苦茶に走り回った。目的などなかった。ただ闇雲に走って、目の前の受難から逃げたかった。
やがて、息が切れて彼は止まった。電柱に手を突き、折れそうな身体を支え、肩で息をしていた。
「ピアノだ」
すれ違った小さな男の子が指を差す。今朝、美樹に結んでもらったボウタイの事だ。
「ほんと。あのお兄ちゃん、ピアニストなのかもしれないわね」
そう子どもに説明する母親の声が聞こえた。
「いいなあ。ぼくもピアニストになる!」
だんだん遠くなるその子の声が、昔の自分と重なった。
――ぼく、ピアニストになるんだ
それはいつまでも彩香の傍にいたいという願いからだった。そして、今はその願いの半分は叶った。同じ音大に行き、ハンスの家で同じ屋根の下で暮らしている。
(だけど、僕は……)
彩香は今やテレビに出て、人気者になり、自分はこうしてこそこそと逃げ回っている。
「仕方がないんだ」
(実力からいっても、家柄からいっても彼女とは釣り合いが取れないのだから……)
無理に自分の心を納得させ、高まる思いを押さえ付けた。
(高望みし過ぎたんだ。身分相応って事があるじゃないか。いくら好きになったって、所詮僕にはそぐわない憧れの人……)
井倉はまた、とぼとぼと歩き出した。ショーウインドーに飾られた時計は1時15分を示している。
(今帰れば……)
そんな考えが頭に過ぎった。彼の出番は3時45分。まだ十分にゆとりがある。
(駄目だ。今更、帰ったって、どうにもなるもんじゃないし、きっと先生達は呆れてるだろう。それどころかすごく怒ってるかもしれない。逃げ出した僕を軽蔑して……もう破門だって言われるかもしれない)
井倉はますます帰れないと思ってホールとは反対の方向に歩いて行った。
その頃、ハンス達はホールの建物を探し回ってようやくエントランスで落ち合ったところだった。
「いましたか?」
ハンスが訊いた。
「いえ。どこにも見当たりません。やはり外に行ったんだと思います」
黒木が息を切らして言った。
「30分くらい前に井倉らしい人物が外に向かって駆けて行くのを見たと彩香さんが言ってました。でも、本番までには時間があるので何か用事があって出たのだと思っていたそうです」
「まったく、何て奴だ。世話を焼かせおって……」
黒木が片手を額に当てて唸る。
「仕方がありません。僕が探して連れ戻します。黒木さんは何とか場を繋いでてください。あの理事長が何か仕組んでいるかもしれません」
「わかりました。でも、むやみに探しても見つかりますかね?」
「見つけてみせます」
「しかし、もし見つけられたとして、どうやってピアノの前に座らせるんです? 一度恐怖心に取り付かれてしまったら……」
教授は悲痛な表情で言った。黒木は知っていたからだ。これまでも大勢の若者が自信をなくし、心折れて音楽界から去ってしまった事を……。
「大丈夫です。彼は必ず弾きます。だから、待っていてください。彼の出番までには絶対に間に合わせますから……」
ハンスが誓った。黒木も彼の瞳の真剣さに強く頷いてみせた。
「では」
そう言うとハンスは風のような速さでエントランスを駆けて行った。
時刻は1時45分。間もなく開演の時間だ。井倉は団地の中庭にある小さな公園のベンチに掛けていた。風が心地よかった。雲が早く流れている。赤ちゃんを連れたお母さん達が木陰で話をしている。彼女達は時折、彼の方を見て声を潜めた。
(僕の事、不審者だと思ってるのかな?)
井倉は立ち上がって、道路に出ようとした。が、遠くに見えた金髪の人影を見て固まった。
(あれは……ハンス先生だ。僕を探しに来たんだ)
咄嗟に踵を返し、隠れる場所を探した。が、公園は何処も見通しが利くようになっていて身を隠す場所がない。
彼は団地の入り口を目指して走った。そして、そのまま中に入るとエレベーターホールに出た。その建物は12階建て。丁度開いたエレベーターから3人降りて来た。井倉はドアが閉まる寸前に飛び乗って最上階のボタンを押した。ドアが閉まって動き出すと、ようやく彼はほっとした。
(ごめんなさい。ハンス先生。でも、僕にはもう先生に会わせる顔がありません。いろいろ親切にしていただいたのに……本当にすみません)
世話になった恩師からも逃げている自分が惨めだった。しかし、一度逃げてしまったら、もう引き返す事など出来ない。だからといって完全に逃げ切る事など出来るのかと問われれば、それも不可能に近いだろう。
(わかってるんだ。こんな事をしていても駄目なんだって……。迷惑掛けるだけなんだって……。わかってるけど、どうにもならなくて……。自分で自分が情けなくて……。もう、ほんとにどうしたらいいのかわからない……)
エレベーターが最上階に到達した。降りると、そこは静かだった。微かに風が出入りする通気口から漏れる音がするだけで……。人の気配はまるでなかった。通路にはたくさんのドアが並んでいた。歩きながら、一つ一つ表札を読んでみた。知っている名字はなかった。
(そりゃそうだよな。僕はこの団地に知り合いなんていないのだから……)
端まで行くとその先にもう一つ表札の掛かっていないドアがあった。
(空き室かな?)
彼は興味本位でドアノブに触れた。するとドアは簡単に開いた。それは非常階段だった。
下に降りる方は黒い怪物の口のように見えた。底のない地獄へと続いている陰気な風が噴き上げて来る。反対に上へ続く口は高い窓から光が射し込んでいた。井倉は無意識に上を目指した。そこは屋上に続く階段で、上った先には金属の扉があった。扉に錠は掛かっておらず、彼はそっと開いて外に出た。広がる青空と日射し。そこには何もなかったが、視界が開けて自由な気分になれた。彼はフェンスに近づいて下の道路を見た。車が小さく見えた。が、人が歩いている様子はない。
(ハンス先生、諦めて別の道へ行っちゃったのかな?)
見つからなくてほっとしたものの、罪悪感から逃げる事は出来なかった。
「暑いな」
9月とはいえ、日中にはまだ真夏と変わらないような強い日射しが照りつけていた。正面にはあの渚ホールの建物が見える。
彼は屋上を歩いて反対側のフェンスまで進んだ。逃げて来たホールから少しでも遠ざかりたかった。が、太陽の光からは逃げられない。じりじりと焼かれて、皮膚と心が疲弊した。
どれくらいそうしていたのかわからない。日射しを避けるように片手を額に当てる。汗が流れていた。
(不思議だな。まだ汗を掻くなんて……。さっきはあんなに身体が冷たく思えたのに……)
アントニー・ルークと同じ曲を弾くとわかった時……。そして、そのルークのピアノを聴いた時、すっと体温が引いていった。
(あの時、ハンス先生達の声を聞きながら、どんどん身体が冷たくなって、まるで雪か氷の世界に来てしまったのかと思ったのに……。死んでしまったのかと……)
彼は、じっと握り締めたままのパンフレットを見つめて言った。
遠くの空を飛ぶ飛行機の音が遅れて響く。
「どうして、こんな事になってしまったんだろう……。これから、どうしたらいいんだろう。行く当てもない。帰る場所もなくて……。いったいどうしたら……」
フェンスを見つめて項垂れた。
「もう一度死にたいのかい?」
背後から声がした。聞き慣れた恩師の声に似ていると思った。しかし、その声には抑揚がなかった。砂のようにざらついて、井倉の背後へと迫って来る。が、彼は振り返らなかった。男の気配が風のように彼を囲う。
「今度は助けたりしないですよ」
「先生……」
振り返った井倉は唖然としてその相手を見つめた。その男がハンスだと思い込んでいたからだ。が、そこに立っていた人物はハンスではなかった。いや、ハンスという殻を脱ぎ捨てた黒髪の……。
「さあ、一緒に会場に戻ろう」
その男が言った。
「何のために?」
「無論、ピアノを弾くために……」
「いやだ。僕には弾けません」
「弾かなければいけない」
男の唇から出て来る言葉は呪詛のようだった。それでも、井倉は拒み続けた。
「弾けません。あんな……凄い演奏を聴いてしまった後で弾ける訳がないんだ。わざわざ恥を掻くために弾くなんて……彩香ちゃんの前で……みんなの前で恥を掻くくらいならいっそ……」
そう言うと井倉はフェンスに手を掛けた。
「いっそ死んだ方がましだと言うの?」
「他に何があると言うんですか?」
「ピアノ」
「……」
「だから、君は死ぬなんて事は出来ないよ。僕が許さない」
「何故ですか?」
「だって、君はもう死んでいるですよ。だから、二度死ぬなんて事は出来ないのです」
「でも、僕は……」
「そんなに言うなら、試してみますか?」
彼の背後から吹く風は冷たく重い闇そのものだった。その風に包まれて井倉は持ち上げられ、フェンスを越えて投げ出されようとしていた。地面がぐらつき、目眩を感じた。自分がどこに立っているのかもわからない。地に足はなく、不安定な頼りなさの中で男に抱えられていた。
「さあ、どうするの? 死にたいなら、僕が殺してあげる。だけど、もう戻る事など出来ないよ」
詰め寄る声に呼応して公園の遊具が揺れる。
「……助けて……!」
井倉は震える声でそう言った。
「……怖いんです。とても……。僕は怖くてたまらなくて……ここに逃げて来ました。本当は死にたくなんかないんです。あの時だって……! 僕はまだ生きていたい! 生きて、そして、先生みたいに……」
「ピアノを弾くんだね?」
「それは……」
井倉はまた震え出した。
「何を恐れているの? 君にはもう怖いものなんか一つもないでしょう? 何故なら、君はもうとっくに死んでいるのだから……!」
「先生……」
井倉は生唾を呑み込むと目の前にいる男を見た。
「死んでいる……? そうか。あの時、僕は死んでたんだ。ならば、もう、何も怖いものなんかない」
男が頷く。背後に流れる飛行機雲が、青い空を二分していく。
「あなたは……。ハンス先生じゃない……。あなたは……誰なんですか?」
「僕は闇。ハンス・D・バウアーの影。そして、生と死を奏でる魂のピアニスト」
「先生の影……」
井倉は呆然としてその男を見上げた。身長は井倉の方が高かった。が、彼はその影を見上げる事しか出来なかった。
「さあ、急いで。すぐに戻ってレッスンです」
「レッスンって……?」
「君はアントニー・ルークを超える」
愕然とした。が、闇の男は井倉の手を掴むと階段に向かって駆け出した。
ホールに戻ると、井倉はその男と個室にいた。時刻は既に3時を回っている。
「さあ、いいですか? 僕は一度しか弾かない。死ぬ気で覚えてください」
「はい」
井倉は一瞬たりとも見逃すまいと目を見開いた。
訪れた闇の静寂の中に静かな灯火がそのピアニストの手元を照らした。それはあらゆる時空を彷徨う者達の嘆き。生きとし生けるものの魂を寄せ集め、そっとキャンドルに火を灯す。厳かな儀式のようだった。魅惑的な悪魔が吐き出す呪いのように詩情を侍らせ、その手は世界の隅々までを這い回る果てしない快感を与えた。そうして、甘美な夢に酔いしれたまま、一気にクライマックスへ突入し、静かに幕を下ろした。
「おいで」
男は彼を招いた。
「さあ、座って。今度は君の番だ」
「はい」
井倉は操り人形のようにぎこちなく腰掛けた。が、闇の中に光る銀色の糸を手繰るように師匠が弾いたその音を再現した。
「いいね。もう一度弾いて。その手に擦り込んで覚えてしまおう」
時刻は3時40分を過ぎていた。舞台では、アントニー・ルークが奏でるえも言われぬ美しい「ため息」が演奏され、観客達は夢見るように舞台に釘付けになっている。ホールの外では黒木が時計を気にしつつ井倉が到着するのを待っていた。ホールの中に拍手が巻き起こり、歓声が外まで聞こえた。
「どうしましたか? 黒木さん。待ち人来たらずのようですな」
理事長が意地悪く言った。
「いや、井倉は絶対に来ます。本番をすっぽかすなどあり得ません」
「しかし、もう呼び出しコールが掛かっているというのにまったく姿を現さない。これは棄権と見なしてよろしいという事ですよね」
理事長が背後に控えていた連絡係の女性に指示を出す。
「井倉優介は欠席のようですので、次のプログラムに……」
そう言い掛けた時。
「待ってください!」
ハンスが駆け付けて来た。
「さあ、井倉君、君は舞台に行って!」
ハンスに言われ、後から来た彼は頷き、会場に向かった。
「ほう。弾くとおっしゃる。あの巨匠アントニー・ルークの後で……。これはまた大した度胸だ。いや、羞恥心というものを持ち合わせていないのか?」
「それは、彼の演奏を聴いてから言ってください」
ハンスが言った。
「では、失礼。せっかくの弟子の晴れ舞台ですから……。僕はホールの中でじっくりと聴きたいので……」
そう言うとハンスは扉を開けて中に消えた。黒木も慌てて後を追い、理事長もそれに続いた。
アナウンスがあり、曲目が紹介されると、一瞬だけ客席に小さなざわめきが起こった。井倉はゆっくりと舞台の上を歩いてピアノの席に着いた。その途端、まるですべての時間が止まったかのような静寂がホール全体を包んだ。
井倉は吸い付けられるようにそっと指を鍵盤に下ろした。
そして、囁くようなやさしさで、最初のメロディーを弾いた。それは心に語り掛けるようだった。そこに捉えられてしまった陰険な獣達でさえ、彼の奏でる音に絡め取られた。
そして、剥がれ落ちる太陽の光の欠片のような煌めきを含み、流れるものの先に集う小さな粒子がさざめく。
その魔力によって、導かれた者の苦悩と嘆き。それはホールに集うすべての者達の心を抉り、穏やかな湖面の底に眠る熱情と結晶した悲しみを埋葬した。そして、遠い憧れと静かな森の灯火だけが遠退いていく……。
やがて、演奏が終ると再び静寂が訪れた。長い間、観客達は沈黙を守っていた。誰も動く者はなく、弾いた井倉自身もしばらくそのままの姿勢でいた。彼がライトの眩しさにはっとして客席を見た時、客達はまだトランス状態にあった。
(誰も拍手しないなんて……。やっぱり僕の演奏じゃ駄目だったのかな?)
井倉は急速に不安に駆られた。いつまでもそこにいるのがいたたまれずについに彼が椅子から立ち上がった時、舞台の袖から駆け寄る者があった。それはアントニー・ルークだった。彼は、舞台の上で立ち竦んでいた井倉を抱き締め熱い抱擁とキスをした。それから、正面を向かせその手を握って勝利者のように腕を上げた。
「ブラボー!」
ルークが叫ぶと一斉に観客達からも拍手と「ブラボー!」の声が飛んだ。
「ブラボー!」
「ブラボー!」
ホール全体が生き物のように揺れた。
「井倉君、おめでとう!」
楽屋では大勢の人が押しかけていた。
たくさんの花束に埋もれた井倉が笑顔で握手を交わしている。
「君は実に素晴らしい! どうだね? 私と一緒にスイスへ来ないか?」
ルークが誘う。
「アーニおじさん。僕の宝物を勝手に持って行かないでくださいね」
ハンスが来て行った。
「……。ルイ坊やなのか? 君は……フリードリッヒ・シュレイダーの息子さんの……」
「はい」
ハンスが笑う。
「確か髪は黒かったと思ったが……。ああ。間違いない。私の小さなルイ坊やだ。すぐにわかったよ。君はあの頃からちっとも変わらないね」
「お久し振りです」
ハンスは彼と握手を交わして言った。
「あの頃はまだ7才の子どもでしたけど……」
「はは。そうだったかね? 私はよく君を抱っこしてあげたのだけれど、覚えてるかい?」
「ええ。もちろん」
「どれ、どのくらい重くなったかもう一度抱っこさせておくれ」
そう言って愉快そうに笑うと、ルークはハンスの両脇に腕を入れて持ち上げようとした。
「やめてよ、おじさん。僕、もうそんな年じゃないですよ」
笑いながらハンスが言うと、ルークも腕を引っ込めて笑顔で答える。
「そうかそうか。それにしても、あんなに小さくて可愛かった坊やが弟子を取るような年になっていたのか。私も年を取ったもんだ」
二人は旧知の仲らしく、話が盛り上がっていたが、その脇では藤倉が井倉の演奏を褒めていた。
「いや、今日の君の演奏は実に素晴らしかったよ。コンクールから日も浅いというのに、また一歩進化したね。何かこう固い殻が剥けたっていうか。優美さだけじゃなく、奥に潜む影というか、呪詛のような怖さがあって良かったよ。私は常々思っているんだが、クラシックには一種の魔物が潜んでいる。それを内包した音を奏でられる者だけがこの世界で生き残る鍵なのじゃないかとね。今日の君の演奏にはそれが垣間見えた気がして……。どうやってその感覚を手に入れたのか訊きたいものだよ」
「ありがとうございます。それは多分、ハンス先生の指導のおかげなんです」
井倉が答える。
「そうか。やっぱりハンス先生は教える者としても素晴らしい素質を持っておられるんだね」
藤倉が井倉の手を取って噎び泣いた。
「そんな、オーバーですよ」
脇からハンスが来て否定した。
「僕はただ、見本を弾いて見せただけ……。それを井倉君が取り込んで演奏した。彼の実力です」
「先生……」
師匠からそんな言葉をもらって、井倉は感激した。
「そうそう。井倉君の進歩の目覚ましさには目を見張るものがありますよ」
フリードリッヒ・バウメンも褒めてくれた。
「ありがとうございます。ヘル バウメン」
皆から祝福され、井倉は今日の事は一生忘れないだろうと思った。
「井倉」
入り口付近で彩香が呼んだ。
「彩香さん」
急いで彼はそちらに行った。
「父が挨拶したいって……」
彩香の背後には彼女の父親が立っていた。井倉は緊張したが、有住は大きな花束を抱えて言った。
「今日の君の演奏、実によかったよ。これからも精進したまえ」
そう言うと有住はその花束をくれた。
「ありがとうございます」
井倉は深々と頭を下げた。その花はコンサートが終了した後で急いで用意してくれた物だった。
美樹やその仕事仲間の声優達も来ていた。皆それぞれに激励の言葉や贈り物をくれた。
「井倉先輩。おめでとうございます。わたし、何も用意してなくて……」
栗田が来て言った。
「いや、いいんだよ。忙しいのに来てくれてありがとう」
井倉が彼女にも礼を言う。
「あんな意地悪されたのに、平気だなんて、ほんと井倉先輩ってすごいです。広美、尊敬しちゃうな」
「あんな意地悪って?」
そう聞き返すと栗田は少し困ったように言った。
「特別ゲストの事、ほんとは言っちゃいけないって理事長から口止めされてたんです。なのに、わたしってばすぐ忘れちゃって、先輩に言っちゃったから……」
「いいんだよ。気にしなくて……今考えれば、それがあったからこそ、成功したようなものだから……」
井倉は言ったが、近くにいた黒木が来て栗田に訊いた。
「口止めってどういう事なんだね?」
「それは……秘密なんで……」
栗田が口籠もる。
「その話、あとでゆっくり聞かせてよ」
クランベリー出版から取材に来ていた記者が彼女を連れて出て行った。
「どういう事なんでしょう?」
藤倉が言った。
「まあ、薬島音大もいろいろあるんですよ」
黒木が頭を掻きながら答える。
「黒木さん、井倉君、そろそろ行こうかって……。フリードリッヒが車手配してくれたから……」
ハンスが皆に言った。
「ヘル ルークも一緒に来てくれるそうなので、今夜は家でパーティーだよ」
ハンスもうれしそうだった。そんな彼を見つめて井倉は思う。
(もう、いつものハンス先生だ)
――僕は闇……生と死を奏でる魂のピアニスト
(不思議なオーラだった。強烈に人を引き付ける。魔弾を撃ち込まれたような……衝撃が僕の中に走った。美しいのにおぞましい。闇の中にすべてが溶け合っている。それは悲しみだろうか。それとも、未だ僕が経験していないような何か……。どちらにしても、僕はまだ先生の事、何も知ってなどいないのだ)
井倉が楽屋に集まった物を片付けていると、彩香が来て言った。
「わたしからも改めておめでとうを言うわ」
「あ、ありがとうございます。彩香さんこそ、3連覇おめでとう! 今日は一緒にお祝い出来るね」
「ええ。ところで、井倉、ハンス先生と何かあったの?」
「え? 別に何もないけど……」
「あなた、本番前、逃げ出したって本当?」
「あ、うん。それは本当。それで、ハンス先生が追い掛けて来て、僕をこの世界へ連れ戻してくれたんだ。もし、それがなければ本当に君ともお別れしてたかもしれない」
「あなたはそうしたかったの?」
「ううん。僕は彩香さんと……」
その時、黒木が来て二人を呼んだ。
「ほら、何をぐずぐずしている? みんな出発してしまうぞ。主役の二人がいなくちゃ話にならん」
「はい。すぐに行きます」
彼らは話を中断して皆と合流した。
パーティーは賑やかで楽しかった。ルークは陽気な人で誰とでもすぐに親しくなってジョークを飛ばした。
「ところで、ルイ、お父様はお元気かね?」
ルークの問いにハンスは少し暗い顔をした。
「父は……もう随分前に亡くなりました」
「そうだったのか。ついこないだお会いした時にはお元気そうだったんだがね」
「こないだ?」
ハンスが聞き咎める。
「ああ、確かあれは3年前……いや、5年前だったか。あるいは10年前……。すまん。記憶が曖昧でね。脳の病気なんだ。治療は受けているが、記憶をやられてね。それでスイスに籠もって療養してたんだ。昔の事はよく覚えてるんだがね」
「そうですか」
病気と聞いて、ハンスは少し辛そうな顔をした。が、すぐにルークが昔話を始めたのでそちらの話題で盛り上がった。それは黒木やフリードリッヒにとっても懐かしいヨーロッパの話だった。
「あれ? 彩香さん、あまり召し上がってないみたいですけど……」
氷のお代わりを運んで来た井倉が言う。
「ちょっと食欲がないだけ……」
彩香が答える。
「彩香さん、昼もほとんど食べなかったじゃない。調子が悪いの?」
丁度近くに来た美樹も心配して訊いた。
「いえ、大丈夫です」
そう答えたものの、乾杯したグラスのワインはほとんど口を付けていなかった。
「ほんとに大丈夫?」
美樹が尋ねた。
「あっさりした物がよければサラダ持って来てあげるわよ」
美樹がそう言い掛けた時、彩香がいきなり口元をハンカチで押さえて立ち上がった。
「ごめんなさい。ちょっと失礼します」
そう言うと彼女は小走りで洗面所に向かった。
「彩香さん……?」
「井倉が心配そうにそちらを見たが、すっかり意気投合したルークと黒木が大声で井倉を呼んだので、そちらに行かない訳には行かなかった。
「どうかしたですか?」
飲み物を取りに来たハンスが訊いた。
「彩香さんがちょっと……」
美樹が小さな声で言った。
「ねえ、まさかと思うんだけど……」
美樹はハンスを隅につれて行くと懸念を口にした。
「彼女、妊娠してるんじゃないかしら?」
「え?」
思ってもみなかったその言葉に、ハンスは耳を疑った。
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